三重県志摩市で『鵜方紅茶』復活へ茶葉収穫
伊勢新聞の記事で「鵜方紅茶、復活へ」と言う見出しを見つけました。
私は今から25年前の1995年から1998年にかけて仕事で週に3回は三重県志摩市の方を車で走っていました。
海も近いところなので、漁師町っぽい風情もありました。そして、お客様はすごく温かい方が多かったです。
その後、名古屋に帰ってきてからも伊勢志摩方面は大好きなので、子供が小さい時はキャンプや海水浴などにも毎年のように行っていました。
約3年、週に3回志摩市のほうに行っていましたが「鵜方紅茶」と言うものは一切聞いた記憶がありません。
今回掲載された伊勢新聞の記事によると、鵜方紅茶は明治から昭和にかけて生産され、大正9年の第4回全国製品茶品評会紅茶部門で最優秀賞を獲得するなど、高い評価を受けていたそうです。
しかし、生産者の高齢化や輸入紅茶の普及で生産量が激減。製造工場も閉鎖され、鵜方紅茶の販売もなくなったそうです。
それから、かなりの時が経ち平成29年に当時のJA鳥羽志摩(元JA伊勢)が産地復活や地域活性化を目指し、紅茶様品種を栽培していた農家2戸と連携して製造試験を開始したそうです。
確かに、平成29年かその少し前から伊勢の方で「和紅茶」の販売に力を入れていた時かと記憶しています。
伊勢の和紅茶は何度か飲んだことがあります。
「和紅茶」と言うだけあり、私のように普段あまり紅茶を飲まない人にとっても、違和感なく飲みやすいものでした。
紅茶らしい雰囲気は感じますが、私たちが子供の頃から飲み慣れていたようなお茶の雰囲気に近く非常に飲みやすかったです。
おそらく、周辺でのそのような動きもあったことで平成29年と言うタイミングで「鵜方紅茶」復活に向けてスタートしたのではと思います。
現在は生産者も4人に増えたそうです。
現存の品種を挿し木して増やしたり、新たに「べにほまれ」の苗を定植したりするなど、復活への取り組みも進めています。
6月23日、紅茶用品種「はつもみじ」などを栽培する谷川原さんの茶畑で2番茶の新芽約30キロを収穫したそうです。
その日はJAの職員や谷川原さんらで「はちもみじ」と「やぶきた」の新芽を手摘みしました。
翌24日にはJA阿児茶加工場で紅茶の製造を行いました。
出来上がった紅茶は磯部町にある食器メーカーとコラボし、同市のふるさと納税の返礼品に使われるそうです。
今回の「鵜方紅茶」のように、過去に隆盛を誇っていたものを復活させたり、地産のものを使って新たな食品を開発したりとするには、「ふるさと納税の返礼品」に使ってもらえると言う安心感(受け皿)があるということは大きいと思います。
今後もこういった流れは続いていくのかなと思います。
25年前の奇跡
今から25年前の1995年に私は新社会人となりました。
当時、就職した会社の本社は兵庫県西宮市にありました。
4月1日に本社がある西宮のホテルで入社式が開催される予定でしたが阪神大震災があり、もちろんそれどころではありませんでした。
西宮の本社工場で入社式が行われることになったので、当日の朝電車で向かいました。
その時目の当たりにした光景は、今日から社会人という自分の将来に大きく不安を感じるようなものでした。
入社式を終え、約1ヵ月にわたる研修を終える頃配属先が言い渡されました。
私の配属先は三重県の松阪市でした。
担当顧客は、松阪市、伊勢市を始め志摩市や尾鷲市、さらに名張市など方向もまるでバラバラで、高速道路を使用せず1日250キロほど走ることが多かったです。
そして、会社が用意してくれた寮に入ることになりました。
寮といっても3DKのアパートを借り、そこに当時50代半ばだった所長と2人暮らしでした。
その所長の学生時代の同級生だという人にえらく気に入ってもらったのは良かったのですが、週に3日ほどは夜中の2時か3時まで飲みに連れ回されました。
そして、朝6時には出社しなければならないので睡眠時間もほとんど取れませんでした。
1995年の6月、いつものように仕事で三重県志摩市の方を車で走っていました。
その時、乗っていたのは4tの冷凍車でした。
伊勢から志摩市に抜ける山道を走っていると、睡魔に襲われてきました。
そして、ものすごい音と衝撃で気づいたときにはどこかに突っ込んでいました。
カーブのところに立っていた小さな時計屋さんでした。
建物全体が、50センチは動いていたかと思います
幸いなことに、店には人が誰もいなくてけが人がいなかった事はよかったです。
しかし、建物はほぼ全壊。
そして、その時計屋さんのご主人とご家族の方に謝罪しました。
その時計屋さんのご主人は、当時80歳近い方でした。
ご本人は、まだ時計屋を続けると言い張っていましたが、ご家族の方はもうこれを機にやめたらどうとお話しされていました。
しかし、ご家族がどれだけ説得しようともお店を続けたいと言う意思がかなり強いようでした。
80歳近い年齢とは言え、ご本人にまだまだやる気があるのに、それを奪ってしまうことになるかもしれないと言うことに申し訳なさでいっぱいになりました。
そして、もちろん私の所在などをお伝えしなければなりませんので免許証をお見せしました。
そうしたら、ご家族の方が「おじいさん、名前がおじいさんと一緒だよ」と驚いたように言いました。
これを聞いて、私も時計屋のご主人も驚きました。
さらに、驚いたように続けます。「おじいさん、誕生日も一緒だよ」と。ものすごい奇跡だと思いませんか!!
時計屋のご主人は大正生まれでしたが、誕生日は一緒だそうです。
ご家族の方が「これも何かの知らせなんじゃない。やっぱり、おじいさんにもうそろそろお店をやめたらって言うことだよ。」そんな感じでおっしゃられていたかと思います。
少し考えられていたようですが、時計屋のご主人もその言葉に「そうかもしれんな」と言うように答えられていたと思います。
入社したとき、私の体重は65kgでしたが、この事故でさすがに食欲が落ち60kgくらいまで体重が落ちました。今は、その1.5倍ありますが(笑)
それ以降は、保険屋から直接連絡を取ったり会わないようにと言われたのでお会いする事はありませんでした。
その後も3年ほど、時計屋があった道を車で走っていましたが、その後時計屋があった場所に時計屋が建つ事はありませんでした。
「鵜方紅茶」の記事を読み、あれからもう25年も経つんだと少し感慨深くなりました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。